人生の大半を四国で過ごしながら、実はお遍路をしていません。
そんな私ですが、いやそんな私だからこそ、時々、黙々と歩く
お遍路さんを見かけると、「ああ、ありがたいなあ」と思います。
お遍路さんの姿を通して、空海さんが、「あなたの住んでいる
この地は、こんなに一生懸命に歩く人がいる、ありがたいところ
なんだよ。日常の忙しさにとりまぎれて、それをお忘れでないかい?
もったいないことだよ」と諭してくれているような気がするからです。
去っていくお遍路さんの背中に書かれた「同行二人」の文字も、
また違う教えを与えてくれます。本来は、「空海さんとともに歩いて
います」の意味ですが、私は、日によってそれを「ご先祖とともに
歩いています」と感じたり、「もうひとつの見えない世界とともに
生きています」と思ったりするのです。
先日、白峯寺にお参りしたときに、一人でお遍路をしている青年に
出会い、しばし話をしました。彼は、休職して2度目のお遍路に来た
ということで、今回は40日かけて札所を巡るのだと言っていました。
この厳しい時代に休職して、物理的にはなんら得になることもない
お遍路をしている青年を、ばかだと言う人もいるでしょうが、
私はなぜかとても美しいと感じました。
その青年は「1回目よりも2回目のほうが大変です」と言いました。
なるほど、人生だって「あのときは最初で、何も知らなかったから
こそできた」ということだらけです。また青年は、「四国の中で一番
心の優しい人が住んでいるのは、高知ですね」とも言っていました。
確かに、高松ではないことに思い当たるふしもあります。
ほんの短い語らいの中にも、こんなにいろいろな発見や反省や
想念が生まれるのです。
八十八カ所の地に住むということは、このように、人一倍、
深い人や思想に出会えるということです。つまり、宝の山に住んで
いるということなのです。
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