対談この人と
話そう...
2024年6月発行(vol.101) |
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たかす文庫「この人と話そう…」
陶芸家 升 たか さん |
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聞き手 蓮井将宏(や和らぎたかす店主) |
升さんとの対談を終えて
升さんは、小生の夭折した兄と同い年です。そのせいか、初対面の時から不思議と親しみを感じていました。升さんの作品からは未来への夢や希望が感じられ、目にすると心が晴れやかになります。この度お話を伺って、その理由が升さんの心の方向性にあると確信しました。また日本の独自性についてのお話は殊に印象に残りました。ふたつの大きな理由がある様です。是非じっくりお読み下さい。「蓮のうてな」にて作品との幸福な化学反応があれば幸いです。心よりお待ちしております。蓮井将宏 拝 |
偶然という必然
蓮井:升さんはご出身が長崎で、その後は?
升 :長崎を出て銀座にある会社で2年くらい営業をしていました。ところがだんだん新宿に居着いてしまって、20歳前後かな、結局会社を辞めてしまいました。
蓮井:寺山修司さんに出会ったのもその頃ですか?
升 :その頃新宿はアンダーグランドの中心的な場所でした。ジャズ聴きながら、ジャズ喫茶で寝泊まりなんかしてたら偶然、寺山修司さん(※日本の歌人・劇作家。演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。1935年ー1983年)に肩叩かれて。寺山さんのことは名前は聞いてたけどよく知らなくて、でもいつの間にか寺山さんとこで住み込みで仕事するようになって、何がなんだか、気がついたら天井桟敷に入ってた。そこで美術やったり役者してみたり、演出助手みたいなことやらされたり。若いから…、そういう時代でしたね。
天井桟敷では横尾忠則さんがポスター担当してたんだけど、彼がNYに行ってしまった後、おまえやれって言われて描いたのが僕の初めてのイラストレーションだった。そこから印刷物、イラストレーションの仕事が始まったんです。
蓮井:絵を描くのが好きだったんですね。
升 :絵しかなかったんですよ、小さい頃から絵で遊んでた、長崎のど田舎で。
蓮井:それが今に繋がってるんですね。
升 :でもイラストレーションで良い時代を過ごせたから、焼きものには描くまいと思っていました。
蓮井:陶芸の仕事は50歳くらいに始めたと聞きましたが何か縁があったんですか?
升 :もともと工芸の仕事に興味はあったけど、忙しくて触れることはなかったんです。でもバブルが弾けて、イラストレーションの仕事もコマーシャルの世界もなくなって、アナログからデジタルの時代に変わった。そうするとほとんどの人間が仕事失ったんです。僕らの時代はアナログなんですよ。だから、産業革命みたいなもんで、それまでのことがほとんど通用しなくなって。経済も落ち込んだし、僕自身も五十前くらいからイラストレーターであることが苦痛になってきてた。色んなことがタイミングよく重なって、辞めよう、と思ったときに、じゃあ何か工芸をやってみようかと。
蓮井:最初は無地の器を作っていたんですね。
升 :そう、最初は土もので二年か三年くらいやってました。でももっと変化が欲しくてバランスを取るために色物も入れるようになって、そうしたらそっちにオファーがあるようになって。少しずつ描くようになると今度は違う面白さを感じて絵付けのほうに。最初は朝鮮の高麗茶碗とか、そういうのをやってて何度も韓国に勉強しに行きました。僕がお世話になった先生はオンギ(甕)の名人で、他がプラスチックになってもオンギ作ってたという人で、ある時日本からこういうの作ってほしいって依頼があって、本格的に茶碗を作り始めたと聞いています。
蓮井:なんという方ですか?
升 :千漢鳳という先生、それも偶然でね、まだ焼きものをやる前にたまたまその人の作品の写真を見て、すごいな、良い茶碗だなぁと思ったことがあったんです。それで焼きものやるようになって韓国を色々見て回ってた時に、泊まってたホテルのロビーの小さなショップでその人の茶碗があったんですよ。あ!これ!!と思って見てたけどもう閉店間際で。オーナーにこの人の茶碗が大好きなんだ、って身振り手振りで話したら、じゃあ、明日連れてってやるって。
蓮井:それまたすごい話ですね…!
升 :山の中の道を一日かけてその人の車で連れて行ってもらいました。桃源郷みたいなとこで。先生は日本にいたことがあったから日本語も話せるんですよ。で、またその二年後くらいかな、一週間くらい先生のところでお世話になって、朝から晩まで先生の手元見て過ごしました。
蓮井:どんなことが勉強になりました?
升 :焼きものそのもの、もですけど、日本と朝鮮との違い、高麗茶碗というものが生まれた必然的条件っていうもの、ですかね。日本にいる僕らの考え方と、向こうとは価値基準が全然違うんですよ。そもそも陶芸家というのは、結局「陶民」なんです、昔の身分制度の中では。朝鮮の場合は陶民は石投げられてた、山を裸にするからって。そういう中でオンギ(甕)作ったり、生活の器を作って生きてきた人たちなんですよ。だから向こうでは、いまだに若い人が陶芸なんかやってたら結婚もできないって言う。今でも食えないって。韓国ではほとんどの食器が金属に変わったしね。だから焼きものの勉強しに韓国に行っても、かつて我々が憧れた朝鮮陶は今はほとんどないんです。千先生の茶碗は、ほぼ100%日本がマーケット。
蓮井:日本は特異なんですね。
升 :そう、世界から見ても特異なんですよ。焼きものを含めて工芸家というのはその国によって全然違う位置付けがある。日本は工芸をとても大事にしている国だと思う。日本人は食べる時に食器を手に持ちますよね。焼きものを手に持って、手触りとかマチエールとかにこだわって、だから日本独特の工芸文化が生まれる。それから侵略されたことがない、それも大きい。一大事の時、焼きものなんて持って逃げる価値がないんですよ、持って逃げるのは貴金属なんです。それから、日本には四季がある。季節によって衣服や食器を変えて忙しい、でもそれを楽しむような花鳥風月の文化がある。それが全部に影響して独特の文化が生まれてるわけで、だから日本ではかつての陶民が今は先生って呼ばれる。そういうのが大きな違いでね、日本人からすれば高麗だ伊羅保だとなる茶碗でも、彼らには今でもただの〝雑器〟なんですよ。そういう捉え方だからこそ、作為が目立たない。だから、良し。
蓮井:作為がないところにこそ、美を感じるんですね。
升 :千先生は二、三千万売るような人でしたが、素朴なところがあって、生活は昔のまんまで質素、それに僕は感動したんですよ。お茶碗作っててもお茶の一服点てるわけでもなく、たぶんお茶そのものもあんまり興味ない。日本だったらいかにも陶芸家らしい教養やセンスを身につけるところをね。だから中途半端な知識で僕なんかが作っても何にもなりゃしないと思った。しかも全部がリサイクルできるんですよ、山の中の村でリンゴ園や果樹園があって、その木をオンドルで燃やして床がポカポカになるとその上に出来た器置いてどんどん乾かしていく。オンドルの焚き口で煮炊きして、残った灰は釉薬にして、土は裏山から採ってくる。家族は農作業しててね。そこにまさに高麗の、朝鮮陶の原点がある。僕なりに、ものづくりの真髄を見た気がしました。先生はそういうこと一言も喋らないけどね。
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見立てという力
蓮井:すごい教えですね…
升 :偶然ですよ。偶然が重なって、良い出会いがあって。でも日本人もそこでね、じゃあ何が素晴らしいかというと、日本人の見立てる力。新しい価値をそこに見立てて作り上げていく。これは外国にないこと。千先生から韓国を通ってアジアを回ってね、僕は日本人のこういう感性は独特だと思う。
蓮井:ものに本来の用途とは別の価値を持たせる。イマジネーションですね。
升 :見立ては使う側の特権なんですよ。だから作る側が仕込みすぎると良くない。でもね、作り手は自分の思いを工芸にどう託すか、価値じゃなくて表現ね、作りたくて作ったんだ、という、そういうのはこれからもっとあっていいと思う。いつも用の美だけじゃなくて。
蓮井:僕は升さんの個展を京都で初めて見た時、心が躍動したんですよ。
升 :僕にとって個展はね、小さくても良いから驚きや喜び、愛、ポジティブな感情を見てくれる人と共有する、作る・渡す・求める、その三者がポジティブにサイクルする、ということで、それが僕の原動力なの。言ってみれば、個展がライブコンサートのような感覚なんですよ。
蓮井:6月21日からのギャラリーenの個展ではどんな作品が来るんですか?
升 :コーヒーカップ、ポット、茶碗、茶入れ…
蓮井:升さんのインタビューで、カップが役者で、ソーサーがステージで、二つ揃うことで物語が生まれる、って書かれてましたけど、良い言葉ですね。
升 :そうカップだけでも良いんだけど、たまにソーサーを使ってステージに乗せてあげてねって思って、頑張って作ってますよ。
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