■光の色彩
品川:私の若い頃の大切な経験をお話しましょう。大学受験も間近の十二月、
東京芸術大学の講習を受けにいった時のことです。
その日は淡彩画の日で課題は「サザエの殻」と「水仙」。
くすんだ灰色の、あまり美しいとは言えないサザエ何個かと、その横に
綺麗な水仙が一本横たわってある、それがモチーフだったの。
なんという取り合わせだろうって思いました。当時は一浪して、
毎日朝から晩までデッサンや淡彩画を描いていましたから、家では、
お花を置いたり花瓶を置いたり、綺麗なものを使っていたんですよ。
でも、このサザエの殻は、色にもポイントをおけないし、
構図も決まらない、第一描きたくない題材です、
一体どういう風に描けば良いだろうって悩みました。
それを4時間で描かなきゃいけないんですからね。
午前中2時間、午後2時間。
他の人はハイという合図とともに、ぱーーと描き始めるんですよ。
でも私は、描き始めることができませんでした。
気持ちが混乱してしまって。
それで、ただ、じーっとそれを見ていたんです。
随分長い間見ていたように思います。
隣の人が「なんで描かないの?」という目で見てましたっけ(笑)。
そのうちに、光が、こう、窓ガラスから、さしかかっていることに
気がつきました。それも柔らかな光が。
はっとしました。
それまで味気ないグレーの物体としか思えなかったサザエですけど、
おだやかな光を受けて、実に豊かな色彩を持っていたことが
はっきり見えてきたんですよ、影の部分までね。
それから、サザエや水仙の周りのなにもない空間でさえ、空気が
充満していて、ゆっくりと流れている、それが見えたんです。
そのとき、これを描くんだ!と思いました。
■本当のデッサン
品川:それから全部を丁寧に描き込む時間はなかったですから、
手前のサザエや水仙だけは影の部分の微妙な色彩まできちんと描いて、
奥のほうは少し加減して。でもよほど集中して描いたからでしょうか、
他の人より早いくらいに描き上がりましたよ。
そうして提出した作品は、4人の先生からただ一言、「素晴らしい」。
それまではそれぞれの先生から褒められたり貶されたり、色々な事を
言われて混乱していたんですけど、その時に、ああ、これが本当の
デッサンなんだ、と思いました。
蓮井:きれいなものを、「見たまま描く」っていうのではダメなんですか。
品川:そう、綺麗なものを美しく、「らしく」描くっていうことは、
意味のないことだったんです。空間の気の流れ、そして光のつくり出す
無限の色彩を、それも影の部分まで含めて見る、
それが物を見るということ。それがわかりました。
レンブラントにしてもフェルメールにしても、作品にあれだけの
深みがあるのはこの光と空気があるからなんですね。
蓮井:天使が舞い降りた感じですね、光が見えたんですから。
品川:ふふ。でもそう、光を見るってとても難しいことなんです。
だから、自分が精魂込めて努力したことに対して、神様の啓示を受けた
のかと思ってうれしかったですねえ…。
蓮井:先生、それはまだ二十歳前のことですよね。だから僕は思うんです、
人間のほとんどの形成は二十代で決まると言われてますが、
その時代にいかに、きちっとした影響を受けるか、ですね。
品川:そうですね。その後、大学で4年間学びましたが、受験の時の経験は
何よりも得がたいものでした。努力すれば報われる。
努力は裏切らないんですよ。
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