対談この人と
話そう...
たかす文庫「この人と話そう…」
洛風林 堀江 麗子さん 愛子さん |
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聞き手 蓮井将宏(や和らぎたかす店主) |
「洛風林」は、堀江麗子さんの祖父、堀江武さんが昭和27年に創業した帯地専門の製造卸業。業界の一般的なメーカーや問屋とは異なり、自らがプロデュースしたものを同人と呼ぶ機屋に織ってもらうというシステム。麗子さんは父堀江徹雄さんの跡を継いで2011年社長に就任。祖父や父が蒐集した古今東西の名物裂や織物は「織園都(オリエント)」と名付けられた資料館で三女の愛子さんが整理、大切に保存されている。 |
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「 古の息吹、今の息吹 」 | |
蓮井:社名の「洛風林」というのはどういう意味ですか? 堀江麗子:洛というのが京の意味で、京都の風、新しい風、息吹を入れたグループというような…。 もともとは明治40年生まれの祖父が十代後半で福井の武生から丁稚奉公に出て来てお世話になった、「西陣の重鎮」と言われていた三宅清(みやけせい)商店さんというところで組まれた、今で言うプロジェクトチームの名前だったんです。当時の社長さんというのが、自分をマスターと呼ばせて、パイプを吸って、ジャズを聴いて、チャップリンの映画が好きでっていうとってもハイカラな方で、その方に祖父は見込まれて企画部のリーダーとして新しい事をしなさい、と。 西陣の物づくりは分業制なので帯を作る時まず図案屋さんというのがあったんですが、そこでは京都の美大の新進気鋭の若い画家達に好きなように描いてもらって図案に取り入れたり、ペルシアやエジプトの古い裂なんかを写してみたり。やっぱりそういう自由なことが出来たのは三宅さんの御蔭で、若いから好きなようにしなさい、と。「若者たちおおいにやれ!」と号令が出て、新しい、刺激的な事をみんなで模索した、そのグループの名前が「洛風林」だったんですが、三宅さんが突然亡くなられて、祖父が遺志を継いで旗揚げさせてもらったんです。 蓮井:そこにお祖父様が育てた方もいたんですね。 堀江麗子:そうですね、持ちつ持たれつで今の私達が成り立っているというか、祖父は特に、細かく指示する人じゃなかったそうですが、機屋さんを集めて博物館の偉い方を呼んで勉強会を開いたりして。機屋さんはその当時の認識では職人さんだったんですが、そうじゃなくて一緒に物づくりをする仲間、洛風林同人としてやりましょうって。それが今の洛風林の形になりました。 蓮井:お父様の跡を継いで、日々どういう事を感じてますか? 堀江麗子:洛風林に入って15年、父が亡くなって2年ほど経つんですけども、今こうやって自分でやっていく毎に父を身近に感じます。不思議なもので、やっぱり父達の跡を継いでお仕事をさせてもらっていると、あ、あの時父はこういうことを考えていたのかな、とか、あ、祖父はきっとこう思いながらこれを作ったんだ、とか、自分の中に父や祖父の想いを感じられて、とても幸せなことだなと思います。妹達と一緒に出来るのも本当に幸せなことだと思いますし、愛子は愛子で、特に父からこの資料館を任されているんです。一番父に似た部分が多いので。だから、よりそういうことを感じていると思います。 蓮井:愛子さんはお父様の言葉でよく覚えてることってありますか? 愛子:例えば、何か、古い裂のことを教えてほしいと聞いた時にその背景、土地の雰囲気、歴史や生活環境を知らないと分からないことがあるよ、だから歴史を勉強しなさいとよく言われていました。父や祖父は実際にその場所までいって、直接見て、裂を蒐集してきましたので。 蓮井:やっぱり、物は風土から生まれて来ているんですもんね。 麗子:目に見えるまま、古い裂の文様を写し取ることは簡単ですが、それが生まれた環境とか、そういう奥の奥まで写し取って帯に落とし込むのが洛風林の仕事かな、と思っています。それからやはりそこに新しい、今を生きる人の息吹が入らないと廃れていくものだと思うので。大事なのは古いものの本質を知った上で文様に落とし込んで、それをどういった素材で表現するか。素材もそれに見合った上質なものでなければいけないですし、素材と織の技術は絶対落としてはいけないと思っています。 蓮井:陶芸家にとっての土ですね。 |
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「 今だからこそ 」 堀江麗子: 15年か20年くらい前の話なんですけど、洛風林の仕事をしてもらっている勝山織物の5代目になる勝山健史さんがちょうど修行を終えて戻って来られた頃に、父が古い名物裂を、私にも見せないような大事な裂を(笑)見せたらしいんです。勝山さんもこれならすぐ写せる、と思ったそうですが、実際やってみると柄はすぐ写せてそれなりには出来るけど、横に並べるとそのもの自体の品格が違う。悩みに悩んで気付いたのが、糸が違う、という事。でもその頃の西陣ではまだ素材を追及するという意識がなかったんですね。糸は糸屋で買うもの。 蓮井:それぞれがその道のプロですから。染めは染め屋。 堀江麗子:ええ、だから、陶芸家だったら土に拘るところを、西陣はそこまでしなくても作ったら売れるという時代があって、そのシステムが長く続いていたので。でもやっぱり糸が全然違うということで、探し求めている時に、イタリアで、船橋さんという洋服の仕立て屋さんに行くと、ポケットのパーツの生地が何気なく目に入ったんです。それを見て、こんなところに僕が求めていた生地がある!と思って、「イタリアのものですか?」と聞いたら、「日本の、志村明さんという方の生地です」と。 蓮井:わざわざイタリアまで行って、出会ったわけですか。 堀江麗子:はい、それで、帰国して愛媛で養蚕をしていた志村さんを訪ねて、色々なきっかけが重なって、志村さんと長野に養蚕の工房を構えることになって。それが12、3年前くらいです。もともとは、養蚕自体、部外者は介入出来なかったんですよね、「糸は糸屋」だから。でも良いのか悪いのか、業界全体が低迷して暗黙のルールが緩み、自分たちで蚕を育てて良いことになって。だから、時代の良い部分と悪い部分が出会って、今に至ってるんです。でもはじめはなかなかうまくいかなくて、ここ数年です、形になってきたのは。 「この時代の最高のものを」 蓮井:現代のもので百年後にも残るようなものを作りたいですね。 堀江麗子:そうです、昔のものと比べると違うかもしれませんが、今できる最高の帯をごまかさずに作っていきたいと思っています。百貨店や小売店の催事に出る事もあるんですが、やはりお客様は素直な目で物を見て下さるんですね。本質を見たいという方が多いんだと思います。それから今手が届かなくても十年後や二十年後、いつか手にしたいと憧れを持ってくださる若い方がすごく多いんだな、って感じます。ですからすぐ販売に繋がらなくても良いものを見てもらう機会を、と。 蓮井:長いスパンでお客様とお付き合いが出来る店を作らないといけないですね。 堀江麗子:日々を丁寧に生きたい人が増えてると思うんですよ。そこに着物の文化が当て嵌まる部分もあると思う。…私、最近やっと自分の役割がわかってきて(笑)私は中身が全然ない人なんですけど、 蓮井:そんなことないでしょう。 堀江麗子:自分の夢というのがあまり無かったというか、こういう家業ですし、父が病気になって今まで働きに出たことのない母が会社に出なければならなくなりまして、そういうのを見て私も他にお勤めしていたんですけど母のお手伝いが出来たらなと思って入社したんです。最初は機屋さんに「麗子さん、将来なにやりたいの」と聞かれて「ペットショップやりたいです」って答えてたくらいで(笑)。でも、もともとすごいおじいちゃん子で祖父や父が集めた貴重な裂や家業に愛着もあって。いろんな方と出会う中で洛風林を求めて下さる方も居て。そういう時に勝山さんが長野で養蚕を始める事になって、糸から携われるようになったんですね。そこでまずお蚕さんの命を頂いているんだ、と気付いたんです。それまでは出来上がった帯しか見てなかったですから。でも人間というのは、自然の流れの中にいて、お蚕さんはその人間と深い関わりを持ってくれていて、そしてこういう風になっていくんだって思った時に「あ、私はこれを伝えていく」。機屋さん達の素晴らしい技術を小売屋さんに伝えていきたい、と。そうしたら次は小売屋さんがお客様にそれを伝えて下さる。こういう時代にたまたまそこに居たから、私はこういう役割で動いているんだな、だから、自分って存在価値があるんだな、役割があるんだな、という思いが徐々に出てきました。 鼎談を終えて 枯れ葉が地に落ち、大地を豊穣に導いてくれるが如く、言の葉が心に落ちて、とても満ち足りた時間でした。三代続く物語から新しい希望の道がはっきりと見えます。「好奇心」という想いが心の中にある限り、人は明るく進めますね。本当に堀江様、貴重なお話を有難うございました。戴いた言魂を大切にして行きたいです。 |
vol.59(2013年12月発行)より |
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