蓮井:野口さんとは母の時代からのお付き合いでお世話になっています。この数十年間、呉服業界にとって激動の時代でした。日本が豊かになるとともに着物の需要が急速に増え、バブル崩壊で衰退していき…、そんな中で家業を守ってこられ、いかがでしたか?
野口晴代:実は私は五人姉妹の一番下で、本来は姉が跡を継ぐ予定だったんです。そして実際継いでいたんですけど、私が二十歳くらいの時、子供一人残して事故で亡くなってしまって。たいへんやったです。当時父は五十五で、母が五十。二十歳の私から見たら、年やと思いましたね、今思えばまだ若いですけど。それまでは嫁に行くつもりで育って、家の商売を目の当たりには見ていない。でも姉が亡くなった時には姉妹のうち三人まで結婚していて、私を入れて二人が残っていて、で、どっちが継ぐのや?ということになり、姉が結婚して出て行ってしまい、私が継ぐことになりました。そのようないきさつですから、それまで意識して着物を見たことがなかったんです。でもある時、蔵の整理をしながら、母が「こんなんあるのよ」と言うて古い衣装を見せてくれたことがありまして、その時薄暗い中で見た衣装がものすごくきれいで。それで昔の衣装はきれいやな、すごいな、と感動しました。
蓮井:”陰翳礼讃”ではないけれど、昔の衣装をその当時の人が見たようなシチュエーションで見て、その魅力というか、衣装そのものが持つ存在感が本領を発揮したんでしょうかね。貴重な資料を残してくれていたということに感謝ですね。僕は以前、野口さんの「原点まで帰らないと見えないものがある」という言葉に感銘を受けました。野口さんのところの物作りはそういう、原点に立ち返りながらそれぞれの時代の風をその上にのせているというか…。僕から見ると、野口さんの作品には色つやというのを感じます。京の雅、みたいなもの、でもそういうのは今、どんどん着物の中から薄れてきているような気がします。
野口:そうですね、我が家もそうですし、京都の街自体にも至るところに原点に戻れるようなものがある、それは幸せな環境やと思いますね。だからこれからもそういう美意識を残したきちっとした街にしたい、そういう意味では今年の祇園祭りでは後祭りが復活しましたから、良い流れになるのだと思います。静かな情緒を楽しんで、そしてまたそういう感覚を育てる街になってほしいですね。
蓮井:ちょうどこの近くですよね、今年復活した大船鉾があるのは。蛤御門の時に焼けて。
野口:ここと一緒に焼けてしもて。(笑)
(※一八六四年の蛤御門の変の時、野口家の店舗屋敷は土蔵三棟以外を焼失。直ちに宮大工の手によって再建され今日に至っています)
蓮井:時代とリンクしているような気がしますね。四十九年前、前の祭りと後の祭りを一緒にした時は文化とか根っこの部分よりお金儲けのほうが大事になってしまいました。でも結局、今、室町(※京都中心部、繊維業が集まる界隈を指す)はビルやマンションだらけになってしまった。原点に帰れということでしょうね。祇園祭はもともとは神聖な、神と人との交流を目的とする神事なのですから。後祭りの復活は文化の再発見に繋がる良いきっかけになってほしいですね。京都はまだたくさん古い良いものが残っていますからね、そういうものを京都の人も再発見して、日本人全体も再発見していけば良いですね。
それにしても八代続いた家業を守って来られて、今、野口さんが大事にしてきた、もしくはこれから大事にしたいと思っていることは何ですか?
野口:商売に直接結びつくかどうかわかりませんけど、自分の中では、昔の美意識を今の形に変えていきつつ、それは着物であっても何であってもいいんですが、そういうものを確実に後世に残したいなと思っていますね。普段の生活もそうです。便利さと不自由さとのせめぎ合いではありますけど、自分の中では、合理的なものより、昔ながらの良さというものを大事にしていきたいと思っています。
蓮井:ある人の言葉で、「文明は売り買い出来るけど、文化は売り買い出来ない」というのがあります。本当の意味での文化を伝えていきたいですね。じゃあ、着物に関してはどうですか?
野口:着物で言えば、自分が好きなものを身につけること。です。あまり形式を気にしないで、その着方は間違っているよという人もありますが、ある程度、時と場所を選んで、人の邪魔にならなければ、洋服着るのとあまり変わらない気持ちで取り組んだら良いんじゃないかと思いますね。それが、知らない人にとっては難しいことなんでしょうけど。自分が着てて嬉しくなるような着物を着てほしいですね。
蓮井:今日はお忙しい処、お時間頂き有難うございました。若い世代の人にも自信を持って着物に挑戦してもらいたいですね。自分らしく…。私達の店でもそういうお手伝いをさせて頂きたいと思います。
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