対談この人と
話そう...
山陰 木綿ものがたり 弓浜絣 工房ゆみはま 嶋田悦子さん 出雲織 出雲織工房 青戸柚美江さん 倉吉絣 福井貞子さん |
木綿の旅に寄せて 日本に木綿が入ってきたのが十五世紀。洗って着るほどに色つやが増してくるという綿の着物は、江戸時代の庶民の質素な暮らしに調和しながら今に至ります。今回取材させて頂いた弓浜絣、出雲絣、倉吉絣の三人の方々は皆八十歳代。 誇りと感謝を胸に、嬉々として仕事をされる姿に尊い仏様を見るようでした。 木綿は庶民が歓喜した布であるように、今回の山陰の旅は私にとり喜びのひとときとなりました。 讃岐三白の一つに、綿があります。今はもう昔ですが山陰の綿は讃岐から伝わったようです。 |
|
弓浜絣 工房ゆみはま 嶋田悦子さん |
|
「五十年この仕事に関わってきた思い出を辿りながらぼちぼちとお話させて頂きたいと思います。東京に住んでいた頃、街頭で織り機の宣伝を見て、織物がやってみたいと主人に申しましたら、柳宗悦先生の甥御さん、悦博先生へ声をかけてくれました。これが昭和30年の暮れですから戦後まもなくですね、まだ世の中、ものが潤沢に回ってはおりませんでした。そんな中で、日本古来の染織が失われていっている、技術がなくなったらたいへんだってことで、それを復興させようじゃないかっていう運動を先生方が起こしてらした頃でした。また、主人は『たくみ』に勤めるにあたり鳥取の吉田璋也先生という民芸にたいへん造詣の深い先生のご紹介で入ったような関係で、民芸にたいへん関心がありました。そんなことで主人が先生に、浜(※弓浜)には良い仕事があるんですけどねぇって言いだしたんです。それで、ぜひやってみようじゃないかってことになりました。」 鳥取県、弓ヶ浜半島で取れる上質の綿は伯州綿(浜綿)と呼ばれ、弓浜絣という伝統織物を育んできたが、日常着や農家の副業として織られていた弓浜絣は時代の波に呑まれ、生産数を落としていた。嶋田さん自身、実家は堺港市で呉服業を営んでいたが身近に絣に接したことはなかったという。 「でもやっぱり呉服屋ですし、浜育ちですし、母に相談してみましたら、母はお年寄りの間を駆け巡り世話をしてくれました。そこへ、今度は白州さんが『こうげい』という店をお開きになりまして、絣をやってみようじゃないか、というお話が出ましてね。お年寄り達は東京で絣が売れるということで喜んで仕事をしてくれました。こういうことで浜の絣が世に出て行ったのです。」 地元の多くの農家では、機は納屋に仕舞い込まれ、綿は手数が掛かるというので換金に都合の良い作物に変わっていたが、なんとか助力を得て普及に努めた。 「でもそのうち母が、これは年寄りがいなくなったらなくなる仕事だと言いまして。」 そこで県の工業試験場へ話を持ち込んだ。昔ながらの手紡ぎ糸は無理なので紡績糸。染めは紺屋が非常に少なくなったので、試験場でインディゴピュアー(合成藍)で染めた。まだ着物が日常着だった時代だが、木綿よりもウールの需要が多かった為ウールもたくさん織ったという。 「ところが今度は主人が、こんなことしてたら根っこがなくなっちゃうよな、と言いだしたんです。私が織りの手習いを始めたのが昭和30年、主人が危機を感じて島根に帰ろうかと言い出したのが昭和44年。14年経っていました。」 「母はたいへん喜びまして、どっさりと綿の種をくれ、懇意にしていた出入りの大工さんに習いながら綿作りもやりました。綿にもいろんな種類がありまして、木の大きなものは立派な綿が取れますけどコシがない。小さい綿のほうが質が良さそうだと思い、次に種を取る時には小さいものだけを残しました。そういうことに拘りながら私なりに保全してきたつもりです。」 そういう中で集めた弓浜の古い裂を眺めていてあることに気がついたという。自分達の作っている反物や他の産地の絣と、古裂との違いだ。 「どうしてこんなに昔のものは良いんだろう、と。糸のこともありますが、染めですね。一言で正藍と言っても、合成藍で染めてあっても藍染めは正藍って表示されたものがたくさんありました。でもとにかく色が落ちる。洗えば洗うだけ落ちる。ところが古い織物は落ちない。藍は寝かせれば落ちなくなる、と申しますが、ただそれだけじゃないような気がしました。」 柳悦孝氏の指示でせめて本藍と合成藍の割り建てにと紺屋に相談をもちかけだが、なかなか引き受けてもらえなかった。 「そんな時、手伝ってくれていた大工さんが、きっとまた自然回帰の時が来るよ、僕が藍を建ててみるよと言ってくれ、一緒に名古屋まで教えを請いに行きました。」 最初はうまく藍建て出来ず、様々な壁にぶつかった。それでも色んな人に助けられ今がある。素材である綿作りから始まって、手紡ぎ糸を手で括り、本藍で染めて手織りする。それが今に復興せられた浜の絣の誇りだ。 ある旱魃の年、綿の種が取れず、それ以前に種を譲って別の土地で栽培されていた綿の種を里帰りで分けてもらったことがある。もとはこの土地の綿の子孫のはずなのに、収穫してみると風合いが違った。 「ひとつ気づかされることは、土地が変わると出来るものも変わってしまう、ということ。そこでやっぱりここで作り続けるしかないなぁ、と思いました。」 ※たくみ 日本や世界の手仕事を紹介する、東京銀座にある工芸店。現在も営業。 ※こうげい 白州正子さんが昭和三十一年から一五年間、「たくみ」の隣で営んだ染織工芸の店。 |
出雲織 出雲織工房 青戸柚美江さん | |
島根県安来市の出雲織は昔から伝わる技術を基に、藍や草木染めで彩った絣の織物である。 「今はお米一升、安いものですけど、戦時中はお米があれば何とでも交換してもらえる時代でした。朝早くから夕方までに百匁の綿を紡いで、そうすると紡ぎ賃として一升のお米が貰えるんですね。だから畑の余った場所では綿を栽培して、母も暇さえあれば紡いできました。それから母が機の整経をする時に乗り物酔いみたいに酔いましたので、代わりにしてほしいと言われ小学校4年から整経は全部私がやりました。そうすると否応なしにだいたい覚えていくんですね。最初は失敗するので止められるんですけど面白いと思って手を出しちゃう。そのうち機織りは小学生の時に覚えました。なんでもやってみたかったですね。山に行った時には、ところどころ緑の繭がぶらさがっていて、母がこの繭で糸取って着物作ったら最高の着物ができるぞ、と言ってました。」 昭和21年、安来の農家に嫁いだ。やがて四人目の子を妊娠中に義父母が相次いで病を得、男ばかりの夫の兄弟も合わせて一四人という大家族を切り盛りすることになった。 「その生活をなんとかしていくために、農業の間に機織りをして少しでも収入を得ようと思って始めました。だけどお勤めをしたことがないのでどこへどう売ればいいか分からない。そこで安来で割合親しくしていた本屋さんの社長さんに相談に行ったら、河合寛次郎さんと一緒に民芸運動した太田直行さんという人が松江におられるからと言って紹介してくれました。太田さんのところに行くと自分は見る目はあるけど、販路がない、ただ、娘のお姑さんが着道楽で、着道楽のグループがあるので、娘を紹介するから、娘にお世話になりなさい、と。ほんとにその方には、我が事のようにお世話して頂きました。」 今現在があるのはみなさんのお蔭。感謝の気持ちがいつもある。 「昼は農業して夜なべに機織りして、徹夜はしょっちゅうしました。 でも丈夫だったんだな、と思います、大病はしたことない。背骨が曲がって痛いですが内臓は元気だし、まだ畑仕事もします。」 |
倉吉絣 福井貞子さん | |
倉吉絣は明治期に盛んに織られた山陰地方を代表する織物のひとつ。絵に描いたように模様が緻密に織りだされる絣の技法は鳥取県倉吉の人々の誇りだという。 「絣は野良着だというと、そうではない。嫁入り道具の最高のものが絣の着物だったわけですから、絣が何枚あるかというのでその人の家柄なんかも判断出来たんです。既製品というのがない時代ですから。なんでも自分で作る。ですから日常の何でもないところにもすごい技術が使われていたんです。」 その倉吉絣の特徴は、高度な技術による絵模様にある。 「絵を掛けて眺めるという生活ではないから、着物の中に絣で絵模様を織ってそれを眺める。それによって縁起を担ぐんです。例えばこれは布団ですね、これは、たばね熨斗。祝儀に使うめでたい模様だからいつもめでたい事が重なりますようにと願ったわけです。どれも額装しても良いくらい活き活きときれいに織ってある。絣の白い部分に色が入っているのはね、藍返しっていうんです。染めた上からまた染める。この藍返しをすると強くなるんです。糸が。藍が濃いほど長持ちする。藍の色にも格差があって、色が濃いほど染め賃が高くなる。蔵が二つくらい並んだ家から収集したのが真っ黒い紺で、それはカラスの濡れ羽色のような黒い紺だった、いうのがその家の自慢だった。こういう資料が何千と蔵の中にあります。これをなんとか有形文化財にして伝えにゃいけんと私は思っているんですけど。」 それは絣の心であり、織物を織る人の心でもある。 「倉吉絣は明治中期、最盛期で一日100反織り出された。学校に進学しないで、機織りだけすればお嫁に行ける、そういう時代でした。機工場に入ったら14時間労働。そこで訓練受けた人は糸のようにまっすぐに生きるという倫理観も教わるんです。毎朝4時に鐘がなって、朝の朝礼で『立ち向かう人の心は鏡なりおのが姿を映してや見ん』と十二、三歳の少女たちが暗唱したんです。鏡に向かってにこっと笑うように、人に良くすれば必ず人も良くしてくれる。力一杯良いものを織ると必ず見返りがある、と。ですから、倉吉には正直でまじめな人がいる、それは織りによって訓練されるからです。根気強く、一反13メートル50の布を織るんですよ。機に乗るときには必ず手を合わせて、織り傷が出来ませんように、しっかり織れますようにと心を入れるんです。」 こんな話もある。ある日、福井さんの家にハイヤーが着き、腰の曲がった年配の女性が杖をついて降りてきた。福井さんが書いた『木綿口伝』という本を持って来てサインが欲しい、そして50年織物をやってきたその感想が聞きたいと言う。福井さんはこう答えた。 「経糸の経てというのはお経の経の字を書く。だから、経ての糸によって私は導かれた、というふうに、自分の人生を思っとります。」 またある時は、 「うちに絣があるから来いと言われて行くと、『嫁入り衣装もなんも入っとります、みんな背なに負うて帰ってくれ』と言われたんですね。でも今日は見るだけでと答えて帰ったの、そうしたところが帰り際大きい声で、『先生、なんで絣を持って帰ってくさんだ、絣がかわいそう、焼かれてしまうがな』と。そうして2年くらいした時にそのお家を訪ねたら、お嫁さんが、『おばあさんのもんはみーんなタンスも長持ちも絣なんかありゃしません、みんな焼いちまいました』。あー、これはやっぱり、あの時に持って帰ってくれとおっしゃったんだったら、資料にもらっとけばよかったということから、私は車の運転を始めたんですよ。風呂敷でさげて帰れんですから。」 このように人々が精魂込めて織った絣をなんとかして残していきたいというのが福井さんの願いだ。 「木綿というものは野暮ったいというので隅に追いやられていますが、木綿こそ最高の織物で、何百年たっても虫が食いません。そして絵模様の中に必ず語りかけてくれるものがある。そういう伝統のある模様なんです。」 |
|
←back・next→ |